メッセージ

広告代理店に勤務する中で、当初から「コピーを書く」という仕事に憧れていました。それはもっと以前、仕事に就く前に思い描いていたことでもありました。
最初に勤務した広告代理店は、東京丸ノ内線の築地駅と日比谷線の東銀座駅の中間あたりのビルの一室に本社を構えていました。そこは、従業員50名ほどの総合広告代理店で、システム化されているとは言い難いオフィスでみんなが忙しく仕事をしている光景は、バイタリティに溢れ、さながら戦場のようでもありました。
当時は、そうした活気に満ち溢れたオフィスに身を置くことに、少しワクワクした気持ちの高ぶりを感じていたのです。まだ、パソコンなどなく、オフィスには卓上機械のようなワープロが一台置かれていたのをはっきり記憶しています。したがって、原稿はもちろん手書き。原稿用紙と鉛筆は、当時のコピーライターにとって必須のアイテムでした。







東京江戸たてもの園

メッセージ

東京での勤務から、静岡県東部の営業所に移ってしばらくした頃、新しい会社へ転職しました。こちらも、当時、東京のお茶の水に本社を構える新聞社系の広告代理店で、従業員300名ほどの規模でした。その浜松営業所に採用となり、生まれ育った街・浜松に戻ってくることになりました。ここで5年間の広告営業職を経験した後、事務所を設立することになりました。
今、振り返ると、コピーライターの経験などまったくなかったにもかかわらず、名刺にはしっかりと「コピーライター」という肩書きを記していたのは、少々大胆でしたが、なにより、この職種には資格がないのも事実。1級、2級、初段、2段などという制度がなかったのも助かりました。つまり、名刺に「コピーライター」と書いた瞬間からめでたくコピーライターなのです。







兵庫県神戸市 長田町駅前
鉄人28号 おそらく実物大

メッセージ

会社案内や新卒者採用向けのコピーが、当時、仕事の多くの部分を占めていました。また、コピーを書くだけでなく、コンセプトデザインなどのディレクション的な業務もあわせて行っていたこともあり、デザイナーやカメラマンと連携する機会もたくさんありました。仕事は、実に雑多で幅広く、手紙のあいさつ文から大手企業のトップインタビュー、ショップ訪問や製品ユーザーへの取材など、全国各地に出かけていきました。おかげで、これまで日本国内で足を踏み入れたことがない県は、和歌山県のみとなりました。
コピーライターの仕事をはじめて、20年ほどが経過しました。広告制作の現場も大きく変わり、柔軟な対応力が求められています。そうした中、現在では、広告の範疇を超えた分野の仕事も多くなっています。広い意味での「広報」が、これからの時代、企業においてますます重要になっていくように思われます。企業(組織・団体)が自らをプロデュースするチカラが求められているのだと思います。それを支えるチカラになることを、今、ビジョンとして描いています。







札幌→釧路 プロペラ機に初搭乗



常葉大学の学生とムービーを制作

メッセージ

自分をクリエイターだと思ったことは、実は一度もありません。常にひとりの「生活者」としてとらえてきました。生活者として日常に身を置き、その一方で仕事に携わった時にクリエイティブな視座でモノゴトを見つめていきたいと考えています。つまり、走り過ぎてはいけない、といつも思っているのです。
この仕事は、常にアウトプットが求められる仕事です。アタマの中が空っぽになった時でさえ、何かを生み出していかなければなりません。もちろん、忙しい時も。したがって、アウトプットの10倍に相当するインプットを続けていかなければならない「宿命」を背負っているのですっw。
(そんな大袈裟なこともありませんが・・・)
いずれにしても、子どものような旺盛な好奇心は忘れないように心がけています。まだ、自分の中に眠っている可能性を引き出してくれるクライアントに出会えることを期待していますw。







少し堅めの書籍



福岡県 門司港駅前にて